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マルコ・ポーロ記念公演

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概要

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いざ、マルコ・ポーロの逸話を追う旅へ!

“大航海時代”の航海者たちに多大な影響を与えたと言われる旅行記「東方見聞録」。
アジアの風俗や地勢について広くまとめられたこの本には、
我々が住む日本もジパングと言う名で登場し、黄金の国として紹介されています。
この「東方見聞録」を遺した人物こそ、ヴェネツィア出身の商人であり、
偉大なる旅行家“マルコ・ポーロ”です。

“マルコ・ポーロ”が生きた時代から時は流れて300年後―――。
ヴェネツィアを拠点に活動する劇団“クリスタッロ”の座長は、偉人“マルコ・ポーロ”の生誕300年を記念して、
彼の逸話を元にした舞台を公演しようと、その準備に奔走していました。
ところが肝心の脚本の出来がいまひとつ。
このままでは舞台の上演はおろか、劇団の存続すら危うい状況です。

そこで航海者の皆様には、“マルコ・ポーロ”生誕300年を記念するにふさわしい脚本を完成させるべく、そのお手伝いをお願いしたいのです。
“マルコ・ポーロ”に関するエピソードを知る人々を訪ね、彼にまつわる様々な情報を集めてください。
無事に脚本が完成した暁には、座長からお礼の品が手渡されるとのことです。
ただし、脚本の出来によって、お礼の品は変わるようですよ。
収集した情報の真偽を確かめつつ、脚本の完成を目指してください。

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実施日時 : 2008年5月28日(水) 〜 2008年6月18日(水)

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参加資格 : 合計名声500以上のプレイヤーキャラクター

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イベント手順

  1. ヴェネツィアの広場にいるNPC“座長”に話し掛けるとイベントが始まります。
  2. “マルコ・ポーロ”に関する情報を収集し、脚本の完成を目指します。
  3. 無事に脚本が完成したら、お礼の品を受け取れます。
    ただし、脚本の出来によって、お礼の品は変わるようです。
    収集した情報が正しいかどうか。
    真偽を確かめつつ、脚本の完成を目指してください。
  4. イベントは前編と後編に分かれており、後編の開始時に新たなストーリーが追加されます。
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攻略

一度採用した情報は破棄できない。
下記フォームから提出情報と報酬の組み合わせを報告していただければ幸いです。

港/上陸地点場所NPC情報考察
港/上陸地点場所NPC情報考察
ヴェネツィア酒場赤い服のツリ目船員ん? マルコ・ポーロについて何か知ってるかだと? 船乗りの知識をなめちゃいけねぇな。奴の出身について教えてやるぜ。
なんてったって、奴はここヴェネツィア出身の商人だしな。なんでも、幼い頃に母親を亡くしちまったんだが、父親はその頃、遠い東の国にいたらしい。
父親と再会したのは、10年以上経ってからって話だぜ。しばらく離れ離れで暮らしてたせいか知らんが、東方への憧れを抱いたのは、父親の影響に間違いねぇだろうな。
1254年マルコ生誕。マルコが生まれる前に旅立った説と生まれてから旅立った説あり。1260年父と叔父が「コンスタンティノープルを」出立。1269年父と叔父がヴェネツィアに帰還。その時点で既に母親は死去。マルコ15歳。
黄色い服のタレ目船員マルコ・ポーロの情報だと? 俺をなめるんじゃねぇぜ。奴の出身について語ってやるよ。
商人だと? そんなわけはねぇ。奴はヴェネツィア出身の貴族って話だったと思うぜ。
教皇にも会ったって話だが、そんなヤツぁ身分の高い奴に決まってるじゃねぇか。貴族出身には間違いねぇだろ。
おそらく×
青い服のタレ目船員マルコ・ポーロっていやぁ、東方の国に行ったってのが有名な話だよな。なんでも、父親と一緒に教皇に謁見し、東方の国のフビライ・ハンって皇帝の要望を伝えたって話だ。
宣教師を派遣して欲しいってことだったらしいんだが、そいつらを連れて東の地へ向かったそうだ。
その旅には、父親や叔父も一緒だったって話だ。宣教師も大勢連れていったらしいし、相当険しい旅だったんじゃないか?
フビライ・ハンの要望を伝えたのは、父親と「叔父」。連れて行った宣教師は2名(しかも途中で逃げ帰った)。
ヤッファ学者横宣教師+劇団員>……マルコ・ポーロに関する情報を調べているですと? ふむ、知っている範囲でよければ、彼が東方へ向かった時のことを話してあげましょう。マルコ・ポーロはホルムズという街から陸路で東へ向かったそうですが、ホルムズにたどり着くまでにも色々あったようです。当時のあの辺りでは戦争が起こっていたそうで、連れていた宣教師達は危険のあまり、逃げ帰ってしまったそうです。しかし、それでも一行は旅をやめなかったのです。旅はまだ半ばでしたが、ホルムズに着いた頃には、マルコ・ポーロとその父親、叔父だけの3人になっていたといいます。厳しい旅だったことは容易に想像がつきますね。ヤッファの情報が正しいと思われる。随行した2名の宣教師は、サラセンの大軍勢によって侵略・破壊されたアルメニアに辿り着いたところで、大いに命の危険を感じ、それ以上同行できないと言ったとある。
ベイルート旅の学者横宣教師+劇団員なんと…。かのマルコ・ポーロに関する情報を集めているですと? なるほど。では、知っている範囲でよければ、彼が東方へ赴いた際のことをお聞かせいたしましょう。マルコ・ポーロはホルムズという街から陸路で東へ向かったそうですが、ホルムズまで特に危険もなく着くことができたそうです。当時のあの辺りでは戦争が起こっていたようですが、連れていた宣教師達も欠けることなく、旅を続けることができたなんて、まさに奇蹟のようです。旅も半ばでしたが、ホルムズについても一行は人員の欠落もなく、旅は順調だったと聞きました。それほど厳しい旅ではなかったのでしょうか
カイロモスク前宣教師+劇団員マルコ・ポーロに関する情報ですか? うむ…。私が聞いたことがある範囲で、東方へ向かった手段についてお教えいたしましょう。彼らは、陸路で東方へ向かったといいます。それがなぜかというと…理由は2つあったそうです。まずは、待っていた船がなかなか到着しなかったということがあるようですね。そして、安全性の問題もあったみたいです。「東方見聞録」でも言及されている通り、当時の船は鉄製の釘を使用しておらず、航海中に沈んでしまうこともあったとか。航海に出る以上、危険はつきものだと思いますが、そうした事情で海路を避けたのですねカイロの情報が正しいと思われる。当初海路で向かおうとホルムズまで行ったものの、船の頼り無さに引き返して陸路で行くことを選択したとある。
ファマガスタ教会前宣教師+劇団員マルコ・ポーロに関する情報を教えてほしいと? ええ、聞いた話でよろしければ、東方へ向かった手段についてお教えしましょう。彼らは、海路で東方へ向かったと聞きます。それがなぜかというと…理由は2つあったそうです。まずは、東方へ向かう船がすぐに用意できたということがあるようです。そして、頑丈に作られた船の安全性を信頼していたようです。陸路より、海路が安全だと彼らは判断したのでしょう
黒海東岸上陸目の前冒険者+劇団員彼は東方へやっとの思いでたどりついた。使者からの歓迎と途中で出会った官吏の世話を受け、マルコ・ポーロ一行は無事に到着することができたんだそして、その地を治めている皇帝フビライ・ハンに自分達の旅の見聞を伝えた。フビライは文武の官吏を集め、盛大にもてなした。若いマルコ・ポーロは大層気に入られたという東方の地での縫製業や紙幣の流通、石炭の使い方など、色々と現地の経済についての知識を蓄えたそうだ「東方見聞録」には、縫製、紙幣、石炭の使用についての記述が存在している。
トルコ西岸巨大枯れ木冒険者+劇団員マルコ・ポーロについてだって? そういえば、数年ほど前に、マルコ・ポーロが立ち寄ったとされる土地に辿りついたことがあるんだそこで聞いた話なんだが、彼は東方にはなんとか無事にたどりついたものの、現地ではそれほど歓迎されなかったようだ彼はそれまでの旅を通じて得た見聞を、東方を治める皇帝、フビライ・ハンに伝えたんだけど、どうやら気に入られなかったらしい結局現地のことはあんまり知ることができなかったようなんだ。せっかく東方まで行ったのに、なんとも悲しい話だ
トレビゾント酒場冒険者+劇団員彼はフビライ・ハンという皇帝に召し抱えられたそうだ。フビライが治める国だけでなく、周辺の国々にも派遣されたという。十数年も仕えていたそうだから、東方の地については相当詳しくなっただろう。恐らくその時に体験したことが、後に「東方見聞録」って書物にまとめられたんじゃないかな
トルコ北岸逆さ岩冒険者+劇団員彼は長い間、東方の国に留まっていたようね。ただ、どんな待遇を受けていたかどうかはわからないから、あんまり色々と見て回れなかったんじゃないかしら。せっかくはるばる東方の国へ行ったのに、とんだ災難よね。でも、あんまり東方について知識を吸収できなかったってことなら、どうやって「東方見聞録」をまとめたのかしら
ナポリ交易所宝石商東の地から戻ったマルコ・ポーロの知らせを受けた故郷では大騒ぎとなったそうです。彼は綺麗な服を着て宴席を用意し親族を招待し、モンゴル人の習慣によって服をバラバラにして皆に配ったんだそうです宴会が終わった後、彼が東の地から持ち帰った服が破れ、中からダイヤモンドなどが出てきたんだそうです。それを見た人々はたいそう驚いたといいます。帰国後、マルコ・ポーロは有名な富豪となったのですが、ジェノヴァとの戦争中に捕らわれてしまった不運な人物でもあります。私が以前取引の際に、東の国の者から聞いた話は以上となりますダイヤモンドはマルコの叔父の服に隠されていた 服も叔父の妻が奴隷に渡した
広場食堂料理人マルコ・ポーロは料理の世界においても多大な貢献をしたらしい。東方各地を遊歴していた際に様々な料理製法を身につけ、薬膳の製法まで学んだそうだ。故郷へ帰国の道中、いろんな困難にも遭遇したが、前もって東方からたくさん漢方薬を購入し、薬膳の研究も続けたせいか、病気にならずにヴェネツィアに戻ることができたみたいだよ
書庫植物学者私はマルコ・ポーロが言及した「茶」について、今までも研究を続けています。「茶」について、「香りによって人を包み、酔わせる魔法のような飲み物である」と彼は語っていたそうです。マルコ・ポーロは東の地で、「茶」を植える方法も学びました。帰国後栽培しようとしましたが、失敗したらしいです。私の調査結果によると、気候と土の違いによる原因が考えられます。「茶」は当時の中国では既に一般的であったが、「東方見聞録」には「茶」への言及が一切存在しない。
マルセイユ酒場内事情通彼は長い間、祖国に帰りたいと願っていたみたいだけど、仕えていたフビライの許しがなかなかでなかったのよそんな時に、彼に舞い込んだ話が、ペルシャへと嫁ぐお姫様の護送。フビライの元を離れるチャンスだったってことね彼はその任務をなんとかやりとげたわ。だけど、東方へは戻らず、その足で、そのまま故郷に向かったって話よ。よっぽど戻りたかったのねコカチン姫をペルシャへ護送する任務とともにフビライから帰国を許されたとの説あり。ペルシャにて姫の夫となるはずの王子の死去(姫は別の王子に嫁いだ)とフビライの崩御の報を聞いたともある。
ジェノヴァ酒場前事情通故郷に戻ってきた彼は、「イル・ミリオーネ」と呼ばれたらしい。東方の話を何事も大げさに答えたからだの、東方の品々で大もうけしたからだの、諸説あるみてぇだがなさらに悲惨なのはここからだ。奴は戦争に巻き込まれて、牢獄に放り込まれちまっちまったんだ。まさに地獄だぜ事情通>だが、その獄中でルスティケロってやつと知り合ったんだ。そいつは、マルコ・ポーロの話を聞いて、俗にいう「東方見聞録」をまとめた凄いやつだぜおそらく○。"Il Milione"(百万)と呼ばれた諸説もあり。ヴェネツィアと隣国ジェノヴァとの戦争に参加して捕虜となり、獄中でRustichello da Pisa(ピサのルスティケロ)と出会い、それまでのマルコの逸話をルスティケロが口述筆記したものが「東方見聞録」と言われている。

参考リンク: (有害リンクを業者が紛れ込ませる可能性があるので、有害かどうか、URLを見て各自判断すること)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AD[外部リンク]
http://zsoft.jp/chronicle/2006/05/_marco_polo_1245_1323.php[外部リンク]
http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/07_china/07-23_marco-polo.html[外部リンク]
http://www5f.biglobe.ne.jp/~yakuzen/nyumon/a1_1_history.htm[外部リンク]
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-408.html[外部リンク]
http://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c06_ladybird/095.html[外部リンク]

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情報など

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